江戸の元禄期(1688−1704)には縞模様の木綿織物が織られ
はじめ、文化期(1804−1818)には 村山絣が創設されました。
もともとは 縞も絣も南蛮貿易によって日本に入ってきた
南方系の木綿織物の柄であるといいます。
「縞」とは2色以上の色糸で、経(たて)や横(よこ)にもろもろ種々
の筋を現したものであり、「絣」とは所々かすったように模様を織り
出したもののことであります。
それらは江戸時代の町人や農民の手によって育てられ、磨かれていきました。
村山産地の木綿縞から村山絣への移り変わりは、
木綿織物技術の発達とともに江戸町人文化の発展を背景にしているという
ことができましょう。
しかし、明治中期以降、他産地で低価格の木綿絣(染絣)が生産されるように
なり、また 日露戦争後には、絹織物の需要が高まるようになったことから、
百年に及ぶ隆盛を誇った村山紬も転換期を迎えました。
村山産地では明治中期から太織縞、黒紬、縞銘仙等の生産が行われていました。
この絹織物の技法と長年培ってきた高度な生産技術を基礎に
新しい銘仙の開発が行われました。
その後先進地であった伊勢崎(群馬県)から板締(いたじめ)染色、
絣板の製造、経巻(たてまき)等の技術導入が実現し、
村山産地の織物は木綿絣から絹織物の大島紬へと
大きく転換していきました。
そして、今日の村山大島紬の基礎が確立しました。
左の画像は 村山大島紬の田代さん
東京都伝統工芸青年会の先代会長さんでもあります。
東京の伝統工芸従事者の若手のとりまとめ役
私たちは 皆お世話になっています。 |