浴衣という言葉は、
平安時代初期の「延喜式」(えんぎしき)の中にもみえますし、
「和漢三才図会」(正徳3年,1713年)に
「浴衣(よくい)、内衣(ないい)、明衣(めいい)和名
湯加太比良(ゆかたびら)、
俗に由加太という浴帷子(ゆかたびら)と訓ず」とあります。
当時の寺院には付属的な建物として浴堂(風呂場)が、
設けられていました。
この浴堂での沐浴の際には、
肌を見せてはいけないと固く戒められており、
必ず単衣をまとって入浴していました。
これが「浴帷子」で、
別に「明衣」などとも呼ばれていました。
その素材の多くは白の生絹でしたが、
後には模様のあるものも用いられたようです。
この「浴帷子」は時代とともに「湯具」(ゆぐ)
「見拭」(みぬぐい)「湯巻」(ゆまき)「腰巻」など
様々な言葉が使われるようになっていきます。
呼び名が変るにともない、
用途も少しずつ変化していきました。
そして、江戸時代の中期には湯上がりのときに着る着物をいうようになりました。
幕末の浮世絵には浴衣をまとった美人図がたくさんあります。
湯屋での入浴がひとつの風俗として
定着していたことを示すものといえましょう。
こうした湯屋の発達は、
いきがる「江戸っ子かたぎ」とあいまって、
湯上がりに着る浴衣を質量ともに向上させることになりました。
さらにもうひとつ忘れてはならないものは、
芝居からの影響です。
歌舞伎十八番「助六」では、かんぺら門兵衛が
藍で染めた白地の真岡木綿
(今の栃木県真岡で産出した木綿)の浴衣をひっかけて、
帯をしないで登場してきます。
今では浴衣といえば、縁日、祭り、夕涼み、花火などとともに、
夏の風物詩として欠かせぬものとなっています。
こうした夏の普段着として浴衣が定着したのは、
明治に入ってからのことです。
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